子供を確実に慶應大学に合格させる方法:無料ウェブ

 

はじめに第1章第2章第3章第4章・第5章第6章第7章第8章第9章第10章最後に

 

Z 合格させてしまう保護者は存在する

 

(1) 読みたい人だけが見て欲しい
 以下は読みたい人だけが読んで欲しい。ここから先は、人によってはあまりいい気分ではない内容が含まれる可能性がある。念の為に補足しておくと、合格させてしまう保護者がすべてこのページで解説する内容に該当するわけではない。たまたま合格することもあるからである。

 

(2) 合格させる親は勘が抜群にいい
 私の経験から言えば、合格させることができる親というものが存在する。合格させてしまう親の共通点は勘がいいことである。東大に合格させるには、徹底した暗記教育ができればいいが、慶應に合格させるには、スキルアップできているか、人間性が優れているかなどの指標が重要になる。どんなに暗記していても、論文試験で点数を取れなければ合格しにくいのが慶應大学の特徴だ。
 以下の動画は慶應大学に短期間の対策で現役合格させた保護者の方の合格インタビューである。部分的に見るのではなく、全部を見て欲しい。

 

 

 

 保護者の方で、教材を選び、子供に買い与える形での合格ケースも存在する。親子が良い意味で協力できる家庭は強い。

 

(3) 合格する生徒と、合格しない生徒の実力評価数値の違い
 私が主催する塾では、ユニークな試みを行っている。私自身が大学院で研究していた思考力の研究活動を活かし、(その当時の知見を活用し)生徒のさまざまな心理特性や特徴を数値化し、合格等の結果へどのように影響するのかを研究している。
 したがって、一般的な小論文の原稿用紙ではなく、入塾時のアンケートも、塾で用いる用紙も、点数が上がる工夫が成されている。小論文の答案用紙には、自分の予想点数を記入する欄がある。合格した生徒と、合格しない生徒の違いは、第一にこの用紙への記入状況である。どちらかと言えば、合格する生徒は、自分の予想点数を記入する傾向にある。素直に記入を促された部位には、記入する傾向が高い。一方で不合格になった生徒は、任意の部位には記入していないことが多かった。
 第二に、自分の点数の予測精度の高さである。合格する生徒は、自分の予想点数をピタリと当てることも珍しくはない。一方で不合格になる生徒は、高すぎるか低すぎるかでズレが生じることが多い。自分の実力を高く評価しすぎる場合は、実力を客観視できていないということである。ここでどの程度予測できるかは、頭の良さの問題だと思う人もいるかもしれないが、実際には感情的な問題であることも多い。自分の点数が低いことを認めたくないという感情が働けば予測点数は高い点数になることもある。

 

(4) 意識は親子で作る
 受験成功の要は、意識である。近年この意識が充実している状態の人を揶揄する風潮もあるが、あまりよい風潮とは言えない。少なくとも、成長しやすいかどうかという観点から言えば、理想的な意識とは、より高みを目指してそれ相応の努力を重ねる意識である。

 

  (5) 自立心と素直な心を育てる(それ以外は何もいらない)
 それでは、家庭教育の段階でどのような状態ができているのが理想なのだろうか。その答えは、自立心と素直な心である。自立心は、親との関係性の中ではぐくまれるものであるため、部外者や家族以外の人間が鍛えることは難しい。
 自立心と素直な心以外は必要ない。あとは、力のある指導者が関与すれば自然とうまくいく。自立心があり、素直な心があるということは、教えたことがすべて吸収されるということである。こうなるとまず合格できる。

 

(6) グレートプレーヤーはグレートコーチではない(保護者が知っておく重要な前提@)
 一般的に学力が高いことと、指導して実績が上がることは別の話である。難関試験に合格した人は、なぜ試験に合格したのかが分かっていないことが多い。難関試験に合格した人になぜ合格したのかを聞いてみるとそれが分かる。皆が違うことを述べる。場合によっては「勉強にやり方などない」という答えもある。要は、頭がいいので合格したということなのだが、そういうケースもあれば、本人がそう思いたいケースもある。したがって益々本当のところの情報は出てこなくなる。資産の力で合格したなどという人はまずいない。
 アヒル症候群という言葉がある。エリートが陥りやすい症状を示した言葉である。エリートは涼しい顔でいかにも自分が努力していないかのようにふるまうことがある。努力して結果を出したのでは、自分の頭脳明晰さが際立たないからである。したがって水鳥のように、水面下では必死の形相で努力をしているが、そのことはひた隠しにして、意識が高い人を馬鹿にする。そして、涼しい顔でアヒルのように水面下では努力するのである。このように、エリートであるほど努力したことが隠されるのは世界共通であり、Stanfordなどのトップスクールですらこの現象に悩まされているという。したがって、より一層本当のところの情報は外に出てきにくくなる。

 

(7) 有名さと指導力は比例しない(保護者が知っておく重要な前提A)
 有名なものであれば、なんでも合格に役立つのではないかと思っている人も多い。実際には知名度は、ヒット要因を抑えるか、資金力、ビジネスの巧みさによって実現することの方が圧倒的に多い。ヒットするものは多くのケースで「色物」であることも多い。キャッチーなコピーで強力な伝播力が生まれる。したがって出版界や映画界では、このような手法の巧みさが研究されている。もちろん、これらは健全な経営努力の範疇である。しかし、知名度と品質は比例するとは限らないということを認識しておくことは大切だ。
一方でポッと出で有名になるのとは違い、資格の大原など、その品質がブランド化する企業もある。このような企業は品質と知名度が比例する典型であり、その指導力の高さから、知名度が生まれている。
 ポッと有名になるものと、品質から生まれるブランドの違いを見分けることが重要である。

 

(8) 地味な教師がなぜすごいのか?(保護者が知っておく重要な前提B)
 大手予備校の会計科目の指導力について、比較してみたことがある。私は資格の大原とは経営上何の関係もないが、極めて分かりやすく、きめ細かい指導であったのは、資格の大原だった。資格の大原には、TV出演をする有名講師はいないかもしれない。しかしその指導力は本物であり、光っている。
 地味な教師の実力が高い理由は、その職人気質な仕事のやり方にある。他の予備校にも有名講師や実力派講師はもちろん存在するが、地味な講師は、エネルギーが仕事に向かうしかないため、仕事の質が上がる傾向がある。

 

(9) 失敗する人は権威に弱い(保護者が知っておく重要な前提C)
 受験で失敗する人は、権威に弱い人が多い。権威に弱い人は、その権威性に振り回されあまり必要ではないことに腐心してしまうことが多い。
 東大式の・・・等の枕詞に弱く、東大式という名前が付いたいろいろな勉強方法に手を出して、どれもものにならずに、気が付くとまったく成績が上がっていないということがある。こういう人は小論文の指導に関しても、学歴で決めようとするところがある。
 そもそも、東大と慶應では、同じ科目である場合でも求められる力はかなり違う。速読即解と英語の運用能力を重視する慶應と、まんべんなく文科省の指導内容を吸収したかをチェックする東大では、求められる英語力が違う。
 単に覚えるといっても、その記憶の質や記憶の量が違う。東大はアウトプット重視の記憶であり、慶應は運用能力を重視する。また慶應はスキルとして十分活用できる英語力を重視し、圧倒的なボキャビルを要求するのに対して、東大は多くのボキャビルは要求せず、日本語を介しながら英語をゆっくり理解しても構わない。
 小論文にいたっては、学力と小論文の実力に相関はほぼ無い。学力が高くとも、答えが無い問いを考える力が高いとは限らない。したがって権威にすがっても、本当に小論文の力がどこまで引きあがるかは分からない。しかし、権威に弱い人は、このような事情にうといため、権威性の高い順番に頼ろうとして失敗してしまうのである。

 

(10)依存心が強すぎる人は合格しない(保護者が知っておく重要な前提D)
 依存心が強すぎるのも、逆説的だが合格しにくいことがある。依存心が強く、戦略軸も任せてもらえるならば合格する。例えば、私は慶應大学6学部受験を薦めているが、これは選択と集中の反対でありシナジーとフォーカスの推進力を活かす戦略軸である。英語と小論文に注力することで、シナジー効果を得て、慶應大学に配点比率と合格確率からかなり高い確率で合格することが可能になる。ところが依存心が強くとも、戦略軸はこだわりがあるので受け入れられないという場合などは、実質的には違うことをやってしまうためうまくいかないこともある。これは数学的な確率計算の対象となる分野であり、私の持論の領域の話ではない。数学的な問題である。

 

(11)あれこれやりすぎる親は合格させられない
 戦略が無いというのは、あれこれやることだと私は述べた。あれこれやるのが良くないのは、茶道や華道も同じである。剣術を学ぶのに、いろいろな流派からかじりつつ学ぶのも同じである。もちろん、一つの流派の道を15年以上かけてそれなりの極みに達しているのであれば、他の流派を学ぶというやり方も通用することがある。しかし、いくつもの思想や哲学を内包した様々な流派のいいところを取り入れてうまい具合にやろうというのは、その学ぶ対象を侮っているとしか言いようがない。
 小論文は考える試験である。これについて以下のような場合問題を抱えやすい。

・適切に考えるということが簡単で程度が低いことだと思っている場合、
・ロジカルシンキングなど、本を2冊程度読めば大体できるようになると思っている場合、
・思考力を上げるなど、テクニックに過ぎないと思っている場合、
・正しい文章の書き方があり、それを学べばなんとかなるだろうと思っている場合、

これは学び成長をするということを、軽視している事例である。
良い方法を教えてくれればなんとかなる。もっと方法を知りたい。その方法でなんとでもなるだろうというのも、認識が甘いと言わざるを得ない。方法というのはもっとも次元が低い物事のとらえ方である。茶道や華道の師に「方法を教えてください」と言えば、どれだけ実態からズレているのかを指摘されるだろう。
 何かについて実力を向上させるということについて、短絡的に考えれば考えるほど、パーツを集めれば合格できるのではないかと感じてしまう。それはモノを教えている人を侮っていることに他ならない。(方法の次元で程度の低いことを教えているにすぎないのだろうと思ってしまっている。)教えている内容の哲学や思想を吸収し、その学んだ内容に推進力をつけて、大きな力を発揮することができるようになることが、戦略的かつ、理想的な学び方である。

 

(12)自分からやるという自主性
 慶應大学の場合、合格しやすい子は、自主的かつ積極的なことが多い。これはスキル型の科目や考える力に比例して合格しやすさが増すからである。手取り足取り親が子供の世話をするのではなく、じっと見守り、必要以上に干渉しないことが重要だ。不必要に干渉していれば、親の保護下にいることに子供の側は安心を覚える。そうやって自発的に考え、行動できなくなった際には、何を学び取ることができるかという積極的な学びの姿勢が無くなっていきやすい。
 ぼーっと受け身で本を読んでも意味が無い。ところが、多くの人は(何を子供に与えるか・どんな教育を与えるか)と考える。魚の取り方を教えるのではなく、魚を与え続ける。魚を与え続けられる子供は、黙っていれば魚が口に飛び込んでくるので、じっとしている。一方で、魚の取り方を学んだ子は、必死に魚を取るように、学ぶ。貪欲に学びの意識があるので、本を読むときも受け身にはならない。自分がやりきるという合格にもっとも必要なマインドや、その大変さの裏返しにある感謝を覚えるのである。
 ずっと与え続けられた人は物事に感謝しにくい。今普通の生活ができることや、生きることができること、勉強をすることができることや、勉強の困難が一つ外れることなど、些細なことに思えるかもしれないが、一つ一つ感謝する気持ちが希薄になっていく。
 人は感謝することで心のバランスを取ることができる。その感謝の気持ちを育むということは、好むと好まざるに関係なく、良質な成長の土台を築くことにつながる。感謝する人が良いとは私は言っていない。物事に深く感謝する思考回路がある人が、スキル型の力を短期間で大きく伸ばしやすいのである。

 













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